冒頭、マッカーサーの「日本と講和を検討すべき時期が、いまや近づきつつある」という爆弾発言から始まる。

米議会は占領費用に懸念があった。そして、日本の非武装化が奇跡的に完了したいま、経済復興のためには講和条約が不可欠というのが、国務省、そしてマッカーサーの考えだった。

しかしアジア太平洋地域に英連邦の安全保障にかかる利害をいまだ有していたイギリスとアメリカは同床異夢であり、また、そこには対日講和という重要な外交課題において、アメリカの意のままにされたくないという一種の誇りもあった。

日米安保の原型としてイギリスのデニング・ミッションが日米間二国間の同盟を提唱していた。

1948年のケナン・ミッションを踏まえたNSC13/2文書は早期講和に反対。しかし、1949年に国務次官を務めたアチソン国務長官就任により、ケナンの考えは否定される。同時に、ペンタゴンは冷戦の始まりを踏まえた日本再軍備への関心を高めていた。

コロンボ会議。英連邦内ではオーストラリア等が日本再軍備に反対。中国問題についてイギリスは中ソ引き離しを画策するも、英連邦内では意見の相違が大きかった。

朝鮮戦争の勃発、アジアでの冷戦激化の情勢、さらに中国義勇軍の戦争への大規模介入により、講和をめぐる交渉は日本に有利になった。アメリカが日本に求めたのは自由主義陣営の一員としてとどまることの明確な保証、軍事基地の自由使用、日本再軍備、太平洋島嶼防衛連合への日本の編入であった。吉田は、これに対して外務省のみならず外部識者にも対応検討を依頼した。

p.166「ダレスとの交渉にあたり、核心となるのは、再軍備問題と予想されていた。基地の提供とアメリカ軍の駐留については、すでに日米両国政府間で、ある程度意思の疎通ができていたものの、警察予備隊の枠をこえた再軍備となると、両国の考え方のひらきは大きかった」

1951年1月のダレス・吉田交渉においてマッカーサーは日本再軍備消極論で、吉田の肩を持つ。吉田は根回しをしていた。

「わが方の見解」:沖縄と小笠原の返還を求める、日米で安全保障のための協力を平和条約とは別個に成立せしめる、再軍備はしない、「今日、日本の安全は、軍備よりも民生の安定にかかることはるかに大である」=経済復興を重視

★基地駐留は当然のものとなっており、バーゲニングの関係にあったのは、日本再軍備と、アメリカによる防衛保証

朝鮮戦争に触発され、米政府が実現に乗り出した太平洋協定案は、イギリスの強硬な反対で挫折する。ダレス・ガスコイン会談において、ガスコイン駐日英国代表は反発。「世界の強国のイギリスの立場という観点から見るとき、提案は太平洋その他の地域における、我が国の責任の放棄として受けとられ、またおそらく英米間の政策の乖離の証左と解されるだろう」 イギリスは、当事国から除外されていた。これにより日本は、日米間の協定のみに照準を合わせればすむこととなった。

サンフランシスコ講和会議において、英米では台湾の国民政府と、共産党政府といずれかを招聘するかにより意見がまとめらず、結局、招聘されることはなかった。

吉田書簡により、日本は国民党政府を相手にすることが明確になった。これが保証となり講和条約は米議会を通過した。

芦田路線は自主軍備、全面講和は高邁な理想として国内でも人気があったが、いずれも国際政治の現実を反映したものではなかった。結局、吉田の多数講和で決着した。(これについては本書では多く語られていない。時間切れだったとのことである)

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このページは、okneigeが2013年4月27日 11:17に書いたブログ記事です。

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