2013年4月アーカイブ

内閣官房 ソマリア沖・アデン湾における海賊対処に関する関係省庁連絡会
2013年3月
「2012年海賊対処レポート」

本件についてまとまったレポートを探していたところ、
これは写真も多用されていて、報告書としても大変分かりやすい。

一時期に比べると海賊による被害は減っているようだけれども、
いまだにロケットランチャーで武装していたり、その危険性は高い。
(ちなみにロケットランチャーを構えた海賊の写真も掲載されている)
P3Cによる他国との連携業務詳細についても記述がある。

興味深かった点は以下のとおり。
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日本の貿易量(トン数ベース)の99.7%が海上輸送に依存

世界で発生している海賊事案は、港の沖合に停泊している船舶に対して闇夜にまぎれて金品を盗み取るといった武装強盗的なものが多い。一方、ソマリア海賊の特徴は、そのほとんどが航行中の船舶に対して自動小銃やロケット・ランチャーを使って襲撃し、ハイジャックしていることである。

近年は、海賊母船として漁船に加え、商船を利用するなど、その手口がますます巧妙かつ大胆になっている。例えば、ハイジャックした商船を海賊母船として使用し、不意をついて他の商船を襲撃するといった事案も数多く発生している他、軍艦を襲撃するという事案も発生している。

2009年6月に「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」(以下「海賊対処法」という。)が成立し、同年7月から同法に基づく海賊対処行動として、自衛隊の部隊が、ソマリア沖・アデン湾において海賊行為に対処するための護衛活動を行っている。

※ここで自衛隊の「部隊」とは海賊行為への対処を護衛艦により行う部隊と航空機により行う部隊のこと。護衛艦には引き続き海上保安官が同乗。

護衛艦による護衛活動は、護衛艦が船団を直接エスコートする方法により実施している。またエスコートする航路については、モンスーンの影響による海賊発生海域の変化を踏まえ、モンスーンの影響が小さく海賊が遠洋に進出する時期には航路を約200km東方に延長するなど柔軟な運用を図っている。

P-3C哨戒機は、ジブチを拠点として警戒監視や情報収集、民間船舶や海賊対処に従事する他国艦艇への情報提供を行っている。これにより、民間船舶は海賊を回避し、他国艦艇は効率的に警戒監視、立入検査、武器の押収等を行うことが可能となり、海賊行為の未然防止に大きく寄与している。
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ところで、保護対象の船籍でリベリアが多いのは、便宜置籍船(FCC: flags of convenience vessel)が多いためだろう。
リベリアといえば内戦を経験した国だが、そのときに船舶登録・登記がどうなっていたのか調べてみたところ、リベリアの便宜置籍制度は、リベリア政府では無く、アメリカに本社のあるLISCR(The Liberian Registry)が、その許認可活動を担っているとのこと。つまり、内戦時でも、特段問題なくリベリアの船籍登録はアメリカで行われていた、ということなのだろう。内戦時は、このLISCRが政府側の資金源になっているという指摘も散見された。便宜置籍船は水産業においてはIUU(違法、無規制、無報告)漁業の温床として批判を受けているが、麻薬や銃、ダイヤモンドなど資源だけでなく、まさか便宜置籍が内戦の資金源になりうるとは考えてもみなかった。



冒頭、マッカーサーの「日本と講和を検討すべき時期が、いまや近づきつつある」という爆弾発言から始まる。

米議会は占領費用に懸念があった。そして、日本の非武装化が奇跡的に完了したいま、経済復興のためには講和条約が不可欠というのが、国務省、そしてマッカーサーの考えだった。

しかしアジア太平洋地域に英連邦の安全保障にかかる利害をいまだ有していたイギリスとアメリカは同床異夢であり、また、そこには対日講和という重要な外交課題において、アメリカの意のままにされたくないという一種の誇りもあった。

日米安保の原型としてイギリスのデニング・ミッションが日米間二国間の同盟を提唱していた。

1948年のケナン・ミッションを踏まえたNSC13/2文書は早期講和に反対。しかし、1949年に国務次官を務めたアチソン国務長官就任により、ケナンの考えは否定される。同時に、ペンタゴンは冷戦の始まりを踏まえた日本再軍備への関心を高めていた。

コロンボ会議。英連邦内ではオーストラリア等が日本再軍備に反対。中国問題についてイギリスは中ソ引き離しを画策するも、英連邦内では意見の相違が大きかった。

朝鮮戦争の勃発、アジアでの冷戦激化の情勢、さらに中国義勇軍の戦争への大規模介入により、講和をめぐる交渉は日本に有利になった。アメリカが日本に求めたのは自由主義陣営の一員としてとどまることの明確な保証、軍事基地の自由使用、日本再軍備、太平洋島嶼防衛連合への日本の編入であった。吉田は、これに対して外務省のみならず外部識者にも対応検討を依頼した。

p.166「ダレスとの交渉にあたり、核心となるのは、再軍備問題と予想されていた。基地の提供とアメリカ軍の駐留については、すでに日米両国政府間で、ある程度意思の疎通ができていたものの、警察予備隊の枠をこえた再軍備となると、両国の考え方のひらきは大きかった」

1951年1月のダレス・吉田交渉においてマッカーサーは日本再軍備消極論で、吉田の肩を持つ。吉田は根回しをしていた。

「わが方の見解」:沖縄と小笠原の返還を求める、日米で安全保障のための協力を平和条約とは別個に成立せしめる、再軍備はしない、「今日、日本の安全は、軍備よりも民生の安定にかかることはるかに大である」=経済復興を重視

★基地駐留は当然のものとなっており、バーゲニングの関係にあったのは、日本再軍備と、アメリカによる防衛保証

朝鮮戦争に触発され、米政府が実現に乗り出した太平洋協定案は、イギリスの強硬な反対で挫折する。ダレス・ガスコイン会談において、ガスコイン駐日英国代表は反発。「世界の強国のイギリスの立場という観点から見るとき、提案は太平洋その他の地域における、我が国の責任の放棄として受けとられ、またおそらく英米間の政策の乖離の証左と解されるだろう」 イギリスは、当事国から除外されていた。これにより日本は、日米間の協定のみに照準を合わせればすむこととなった。

サンフランシスコ講和会議において、英米では台湾の国民政府と、共産党政府といずれかを招聘するかにより意見がまとめらず、結局、招聘されることはなかった。

吉田書簡により、日本は国民党政府を相手にすることが明確になった。これが保証となり講和条約は米議会を通過した。

芦田路線は自主軍備、全面講和は高邁な理想として国内でも人気があったが、いずれも国際政治の現実を反映したものではなかった。結局、吉田の多数講和で決着した。(これについては本書では多く語られていない。時間切れだったとのことである)


NHK「プロフェッショナル」を基に天野先生が書き下ろした。天野先生のコトバは、落ちこぼれの自分でも、毎日毎日努力をすれば、なんとか世の中に役に立つ仕事ができるかもしれないと、希望をもたらしてくれる。また、後進の育成に励む一人の師匠として、家族を持つ親としての思いについても述べられている。

印象的な内容は以下のとおり。
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どんなときでも、自分の引き出しの中からもっとも揺るぎないものを出していく力は、一朝一夕には確立できません。それを可能にするには、形になっていないものを形にしていく努力をコツコツ積み重ねるしかないのです。自分が命を懸けて取り組んできたことがあるなら、その道にさらなる一歩を踏み出すことは、自分にとって一番簡単な方法であり、解決への一番の近道であるはずです。自分の信じる道を、迷わずに、歩み続けること。それこそ自分を成長させ、相手に利益をもたらし、社会に貢献できる生き方でしょう。

後ろからスタートした者は、前を行く人以上の努力をしなければ、いつまで経っても先頭に立つことはできません。

部下を伸ばすための上司の役割というのは、知識と経験のアンバランスを統合してあげることです。十分に勉強していて、意欲もあって、あと足りないのは経験だけという部下には、どんどん経験の場を与えることも、上司の責務です。


カラシニコフ第一部に引き続き、パキスタンやアフガニスタンなどの紛争地からのルポ。

コロンビア(元)ゲリラへの取材は印象的。
「FARC(コロンビア革命軍)は社会主義ゲリラだといわれていたし、自分でもそう思っていた。ところが中に入ってみたら関係なかった。人質を拉致して身代金を取る。コカインの密輸をする。幹部は一日中そんなことばかり話していて、政治的な話題はほとんど出てこなかった」
こういう反政府ゲリラとの停戦合意とは何なのだろう、どのように可能なのか、ということを考えた。

中国の北方工業公司製のノリンコMAKはAK47の違法コピー。こうした安かろう主義のノリンコMAKは米国に大量に流入したが、1994年の銃規制法が制定されてから半自動ライフルの販売ができなくなったため、正規の銃販売業者ですら、在庫処分のためにコロンビアゲリラに密輸した。

パキスタンの部族地帯では、銃を持つことが当たり前である。警察ですら権限が及ばない。自治地域の治安は、パシュトゥン人で形成される部族警察が責任を持つ。部族警察のパシュトゥン人は、自動小銃をつくるのも持つのも自由。


朝日新聞の松本氏は、全国紙では珍しく、内戦地域に実際に足を踏み入れたジャーナリストのひとり。

ソマリランドの記述が特に興味深い。
ソマリランドは銃を毎日返納する。民兵を、銃ごと軍と警察に吸収してしまった。

ソマリアでも、ソマリランドだけは平和な地域となっているが、こうした軍隊をそのまま取り込むというのは、イラクや南スーダンでも行われている。Reintegrationとして成功するかどうかは、慎重な戦略が必要となる。


民軍関係に携わってきた第一線の実務家と研究者が揃って執筆した重要な一冊。

ここでは中満泉「人道支援組織の視点から見た民軍関係の課題」に注目して、印象的な記述(一部引用、一部要約)は以下のとおり。
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ボスニアの民軍関係における困難は、市民の保護の観点から安全地帯決議が採択され、その執行をめぐり実行力を持たない国連が、次第にNATOの空爆への依存度を増すようになってからである。近接航空支援とNATOの空軍力行使の混乱。See.明石康

【ルワンダ人道危機】
ルワンダ国内の安全地域でのキャンプ設営や援助配布などに合意がなかった。文民の側に国内避難民問題に関する統一的な主導機関が存在しないという体制上の欠陥があった。

★【サービス・パッケージという民軍連携】
 ザイール、特に短期間の難民流出では史上最高を記録したゴマ周辺での緊急人道危機に対処した民軍協力は特筆に値する。後に「サービス・パッケージ」として整備されるこの民軍協力は、大規模危機にて文民組織の能力が明らかに欠如する分野で、各国からサービスや物資、支援要員、資金などを丸抱え・自己完結型で提供してもらう、という緊急援助ツールである。ゴマの人道危機では、軍隊が機動力を発揮すると考えられた空港の管理運営、後方支援基地業務、道路設備と道路の治安維持、難民キャンプ設営、調理用家庭燃料の配給、衛星設備、給水管理、空輸基地管理の8分野の支援が各国に要請された。当初の出足には時間がかかったが、軍事組織の巨大な兵站・工兵能力によって、キャンプ内の人道状況は一旦沈静化に向かった。米仏両軍が撤収した後を引き継いで、日本の自衛隊も医療・給水活動などに従事した。ルワンダ人道危機での経験をもとに、現在、UNHCRでは20分野にサービス・パッケージを保持している。

・民軍協力によって援助の分野は対処されたが、難民キャンプ内の治安問題に関して軍隊の協力は得られなかった。もっとも危険な環境での人道活動は、文民に任されるという印象が、人道支援組織の間で共有された。

【コソボにおける民軍の競合】
コソボ危機において初めて、文民組織とNATOが人道支援で競合関係に陥った。大規模な緊急人道危機では、軍隊が主導権を握るべきという主張が現れたのである。これには複合的な要因があった。初期のUNHCRの対応ミスによる文民組織への信頼低下、マケドニア・アルバニア両政府がNATOやEUとの関係強化という自国の政治的利益のためにNATOの主導を望み、NATOの側も、コソボ介入が地上部隊投入となった場合に重要な後方基地となるマケドニアとの関係を強化する政治的意図もあった。また、メディアの注目を浴びたコソボ危機において、自国の軍隊による目に見える援助をおこないたいというドナー側の意図も見え隠れした。NATOに支援を要請した緒方HCRとソラナNATO事務総長の書簡交換によってUNHCRに主導権があることが確認されたものの、現場ではNATOの圧倒的な機動力と積極的に直接支援に関わるアプローチの前で、UNHCRのリーダーシップに疑問を呈する声が効かれた。軍隊は後方支援ではなく、コソボにおいて前面に出ることになった。

・NATOの直接支援が前面に押し出されドナー各国の特色が強調される経口があった。支援内容に格差が出たり、ドナー各国間での不必要な競争が起こった。自国の顔を見せる援助に関しては協議・調整がなかった。

【コソボにおいて軍事組織の得意分野が明らかになった】
軍事組織に拠る人道活動は、
1.人道機関の活動を保証し、市民の保護を達成するために必要な治安回復
2.危険地域での物資の輸送や、倉庫の管理といった人道支援組織の側面支援
3.難民・IDPへの直接支援配布
という三つのうち、明らかに軍事組織が多大な貢献をしたのは1と2であって、3はむしろ問題の方が大きかった。



原著:Philip Gourevitch(1999), We Wish to Inform You That Tomorrow We Will Be Killed with Our Families: Stories from Rwanda


ルワンダのジェノサイドに至る過程と、虐殺の悲劇が前半で記され、ジェノサイド後にコンゴ民やタンザニアへ逃れたフツ系ルワンダ人に対する襲撃とカガメ大統領へのインタビューが後半で記されている。著者のゴーレイヴィッチはジェノサイド後にルワンダに逸早く入った外国人ジャーナリストの一人であり、発売当初からルワンダのジェノサイドを知るために代表的な一冊となっていた。2011年に上下巻が一冊にまとまった新装版が発売され、ますます多くの人に読まれることが期待される。

印象的な内容(一部要約、一部引用)について以下のとおり。なおページ数は旧版の上下巻のもの。
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1975年にフランスとルワンダのあいだで結ばれた軍事協定は、仏軍がルワンダ人の戦闘、軍事訓練、警察行動に参加することをはっきり禁じていた。しかしミッテラン大統領はハビャリマナの友人であり、ミッテランの息子、武器商人でありフランス外務省のアフリカ政策顧問をもつとめるジャン・クリストフもまた彼の友人だった。

上巻p.181
★【国内避難民は紛争の交渉材料であった】
オテル・デ・ミル・コリンや聖家族教会などいくつかのツチ族避難民の集結所は、フツ族にとってRPFとの大事な交渉材料となっていた。だからこそ彼らは生き長らえることができた。
RPFは政府軍の捕虜数1千名を町の反対側にあるスタジアムに収容しており、そしてRFP指導部はフツ至上主義政府にも理解できる一種の取引を提案してきていた。すなわち、おまえたちが殺せば、われわれも殺す。前線で捕虜交換の交渉がおこなわれた。UNAMIRが取引を仲介して輸送手段を提供した。当時は国連が避難民を救ったとも報道されたが真実は違う。RPFが他の人間を殺すと脅したから避難民は救われた。

上巻p.191
オルブライト朝刊の名前がルワンダと結び付けられることはほとんどないが、オルブライトはルワンダにわずか270名の軍隊すら残すことにすら反対した。PDD25では米国が自分が参加したくない任務を実行しないよう他国にも働きかけるべきだとも促している。

上巻p.206
★【ジェノサイドの終わり、フツ族のザイールへの流入、フランスによるジェノシダレの保護】
RPFの前線部隊は避難民を追ってフツ至上主義勢力の牙城である北西部に入り、逃走した政府軍部隊から支配権を確保した。7月12日、ICRCはジェノサイドによって100万人が殺されたと発表した。7月13日、RPFはハビャリマナのかつての根拠地ルヘンゲリを占領し、それから2日間で50万人ものフツ族が国境を越えてゴマに雪崩れこんだ。7月15日、米国はルワンダのフツ至上主義政権の承認を取り消し、ワシントンの大使館を閉鎖した。7月16日、フツ至上主義者の大統領と閣僚のほとんどがターコイズ地区に避難した。フランスは彼らを逮捕すると約束したが、7月17日、彼らはバガソラ大使に護衛されてザイールに向かった。すでにザイールに向かったルワンダ人の流入は100万人を超えていた。

ゴマはキブ湖の北岸、迫りくる火山の山裾にあり、不毛な黒い溶岩台地が広がっている。この硫黄の寝床に、ルワンダ人難民は周囲のどの都市よりも大きな人口を抱えた6つのキャンプを設営した。それぞれ12万人~20万人。そしてコレラが猛威をふるった3,4週間の間に3万人以上が死んだ。

下巻p.62
【規律正しいRPF】
カガメは規律正しく、同じ政治的理想に検診する兵士は、つねに自分自身の権力を維持する以上の目的を持たない腐敗した政権の兵士を打ち破れる。RPFは戦争の間、士官もは以下の兵士達も、軍事訓練だけでなく定期的に政治セミナーへの参加も義務づけられた。政治教育とともに、RPFはゲリラ戦争のあいだに規律正しさによっても知られるようになった。カガメは軍に正気と規律をもたらした。

下巻p.79
【ツチ族はルワンダに帰還した】
なぜ、ほとんどルワンダに足を踏み入れたこともない人々が、比較的安定して安全な成果を捨ててルワンダに住みつこうと考えたのか?それは国外追放の歴史、難民生活のプレッシャー、故郷の記憶、あるいは望郷の念、そのすべてがかかわっている。同時に広く共有されたジェノサイドに抗おうという決意、自分たちの存在が消し去られようとした場所にたち、それに抗う一人となりたいという思いもあった。

【最初期は経済的なインセンティブも】
無料で奪える空き屋と、供給をはるかに上回る物資とサービスの需要に惹かれ、帰還者達は観物、金物、医薬品、食品、なんでもかついでやってきた。物資をもちこんでルワンダで2,3倍の利益をあげ、数週間のうちに大金持ちになったものもいた。

店は開いて商売をはじめ、公共施設は多くがよみがえり、新しいお札が発行されてジェノシダレが逃亡時に大量に持ち去った旧紙幣を無効にした。

下巻p.109
国連法廷は本質的には国際社会の良心を満足させるために、ジェノサイド条約の求めるところを満たせなかったかわりに作られた。なにかをやっているように見せかけたいだけなんだが、こういうのはたいてい、なにもやらないより始末が悪い。

ジェノサイドの指導者たちの身柄が国連法廷に引き渡されたとしても問題は残った。国連は法廷が死刑判決をくだすのを禁じていた。

下巻p.201
【コンゴ戦争はアフリカにおける世界大戦】
スーダンの独裁者モブツは死に、1997年5月17日、カビラが大統領に就任。コンゴ民主共和国に名前が戻った。カビラが素早く戦勝できたのは、ザイール軍が脆弱だったため。モブツのために戦ったのは数万人にもおよぶルワンダのフツ至上主義政党の亡命兵士と、フランスで雇われたセルビア人傭兵数10名だけだった。同時に外国勢力の援助があった。それはルワンダでけではなく、アンゴラ、ブルンジ、タンザニア、ウガンダ、ザンビア、エリトリア、エチオピア、南アフリカ、ジンバブエであった。ヨーロッパで起こっていたら、これはおそらく世界大戦と呼ばれていただろう。

訳者解説p.246
1994年4月7日、朝日新聞の夕刊では一面でルワンダ、ブルンジの亮大統領の乗った飛行機が撃墜され、内戦が激化しつつあることが伝えられた。
だが、4月8日、細川首相が辞意を表明する。以後、紙面はすべて新生党と新内閣をめぐるゴタゴタに埋め尽くされ、記事はすべて国際面の中に押し込められてしまった。


平和構築の実務家として働くにあたって、何度も読み返してしまう一冊。絶望的な状況において、いかに難民に寄り添い、人間の安全保障を達成するか。90年代の内戦に国連がどのように立ち向かったか、否、向き合うことなく空論を重ねてきたかを跡付ける貴重な回顧録であるのはもちろん、国際機関で働く実務家にとっても現場での姿勢を教えてくれる歴史的な一冊。

ユーゴ、クルド、アフガニスタンと全ての事例が、人道援助で働く人々には胸に刺さる内容ばかりであるものの、2013年現在においても、そのジレンマが続いているという意味では、やはり大湖地域であろうか。「第3章 アフリカ大湖地域における危機」の中から興味深かった内容(一部要約)は以下のとおり。
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ジェノサイド後、(虐殺を主導した側となった)フツ系住民は大部分が周辺諸国に逃れた。最初の集団は1994年4月末に国境を越えてタンザニアに流入した。
難民の多くはキブンゴ州のフツ系農民であったが、彼らは殺戮から逃れてきたのではなく、かつてルワンダ東部で起きたツチ系住民の殺害に関与していたため、ルワンダ愛国戦線(RPF)部隊が到着する前に脱出してきたのである。

フランスはすでにルワンダに深く関わっており、フツ族政権に対する肩入れは強かった。1994年6月、トルコ石作戦でフランス軍が戻ってきたことに関して、のちに東アフリカ研究者のジェラール・プルニエは、フランスがルワンダにおける影響力を維持したいと強く望んだためという興味深い指摘をしている。

【難民キャンプの軍事化】
ルワンダからザイールに越境した兵士と民兵は総計五〇〇〇〇人と推定された。旧ルワンダ軍(FAR)兵士、民兵組織など。
1994年8月、緒方氏は国連の介入を要請した。提案内容は、1.FAR兵士の完全武装解除。すべての武器や装備を回収し、国境から遠く離れた安全な場所に保管する、2.文民の指導者を分離し、中立化させる、3.犯罪者に対処するシステムを確立する、4.警察などの配置によって難民キャンプ内の法と秩序を守る。

そもそも治安維持装置の実施は原則として、難民受け入れ国の責任である。UNHCRは難民キャンプの警護を任されたタンザニアの警察に装備と訓練を与えた。警察がキャンプに駐留すると、効果はてきめんに表れた。

ザイールの場合は、政府に治安を維持する能力がなかった。そもそも、ザイールのモブツ大統領や政府高官は、ルワンダ前政権と密接な関係をもっていた。ザイールの首都キンシャサはゴマから1600kmも離れており、州政府は無力であった。兵士や民兵からなる難民の数は膨大であった。

ルワンダ難民キャンプにおいて、難民のなかに紛れ込んだ前政権の政治・軍事指導者たちは、かつてルワンダに存在した管理機構を再現させていた。彼らは社会委員会という連絡組織を設置し、難民向け物資の日々の配布といった内部調整にあたっていた。第二の管理機構は各キャンプに設立された治安委員会。第三に、資金調達システム。難民はみな旧体制の政府関係者たちに寄付金を支払う義務があり、それは彼らがいつかルワンダ新政権に反撃をしかけ、勝利して本国に帰るという最終目的のためであった。

間接的に、あるいは必ずしも意図されずに、人道援助書記官やNGOもまた、こうした管理機構に重要な後ろ盾を提供していた。通常、難民自身が日常の雑事を引受けるのは歓迎されるし、望ましい。しかし、ザイールのルワンダ難民キャンプという政治色の濃い状況では、このような管理機構は指導者の支配を一元化し、ともに武力帰還して政権を奪還するという、彼らの究極の目標の達成をいっそう強化した。

【裏目に出たカーター元大統領の仲介】p.252-
ルワンダとブルンジをめぐる紛争を終結させる方策を求めて、カーター元大統領はアフリカの指導者との討議を決断し、カイロで会議が開催された。当事国の一国の要請から、国連はこの会議から排除された。
このイニシアティブは現実には難民の帰還にマイナスの影響を与える結果となった。
カイロ宣言はすべての行動計画を一般的な善意の表明に置き替えてしまった。カイロ会議の介入がなかったら、モブツ大統領が難民帰還の完了期日を無視したり、大湖地域におけるパワーゲームの人質に難民を利用しつづけるのは、より困難であったかもしれない。

【虐殺の実態】p.284-
1996年10月以降行われた殺戮および残虐行為には、ザイール国軍(FAZ)と傭兵、旧ルワンダ政府軍(FAR)と難民キャンプ出身の民兵、そしてカビラが率いるAFDLとルワンダ政府軍(RPA)という、三つの集団が関わっていた。AFDL部隊および同盟を組むRPAは、民間人や難民に対し大規模な殺戮を行った。

【アメリカの関与】
アメリカはフツ系難民が多数を占めるザイールの難民キャンプに人道援助を行う一方、RPAと南キヴのツチ系バニャムレンゲの軍事訓練や軍事支援にも手を貸していた。ルワンダとザイールでは米軍による軍事訓練がRPAとAFDLの軍事能力を高めていると見られていた。人道的な地雷除去と訓練プログラムを隠れ蓑に、より積極的な軍事支援が行われていたと考えられていた。

9月9日、安保理に活動の一時停止の決断を発表。安保理はコンゴ民に圧力をかけた。しかし、カビラの態度に変化はなく、10月、UNHCRは難民とともに活動していた他の国際人道援助機関やNGOとともに、ゴマを離れるよう命令された。

【強制帰還】p.292-
ルワンダのけるUNHCRの主な活動は、難民の帰還を支援し、確実に再定住させること。1994年から99年までの6年間に、300万人以上のルワンダ難民が亡命先から帰国した。1959年以降、異郷に暮らしていたツチ系ルワンダ人は、RPFが勝利をおさめた後、1994年に大挙して自主的に帰還した。総数で80万人を超えた彼らはいわば旧難民であった。
他方、新難民は、1994年のジェノサイドの最中に逃げ出した主にフツ続であった。彼らは1996年から97年にかけて、ザイールとタンザニアから強制的に大量送還された。UNHCRは帰還プロセスを統括する政府諸機関に、実務面での支援を提供した。
難民が大挙して突然帰還したことで、ルワンダ社会には深刻な不安が生じた。法定外で人々による中傷や弾劾に基づく処刑が行われることもあった。ジェノサイドの生存者や旧難民の帰還者を殺害するなど、襲撃行為が著しく増加した。

【結論】p.316-
ジェノサイドに対して、国連も主要各国もなんら戦略的な対応をとらなかったため、ルワンダ政府と国民は国際社会に強い不信の念を抱くことになった。難民保護を任務とする国連機関であるUNHCRにとって、ジェノサイドと、200万人を超えるルワンダからの大規模な国外脱出への対応は、大きな試練となった。

旧ルワンダ政府軍(FAR)が難民に紛れ込んだキヴ・キャンプの運営について、UNHCRは旧軍兵士を武装解除し、キャンプに法と秩序をもとらすために、国際社会に対して警察隊の派遣を要請した。

UNHCRは国際的な監視のもとに、訓練を受けたザイール保安隊の配置を実施しなければならなかった。

1500人のザイール保安対はキャンプにある程度の秩序をもたらしたが、キャンプの軍事化という問題自体を克服するものでは決してなかった。キャンプの存在はルワンダに対する安全保障上の脅威であり、地元部族間の緊張をあおるものであった。

国づくりの支援を促進する過程で、国際システムにはいくつかの欠陥があることが明白になった。

第一に、難民と難民受け入れ国を武装勢力から守るための介入を行う仕組みが欠如していた。UNHCRは事務総長とDPKOに対して、深刻な治安上の脅威に対処できる手段を考案するよう求めた。しかし、結局、UNHCRはザイール保安隊を募集すると言う、限定的かつ暫定的な手段をとらざるを得なかった。

第二に、緊急人道援助と長期的な開発援助を結び付ける枠組みもなかった。ルワンダでは、UNHCRはUNDPとともに、より組織的な連携を構築するために合同チームを結成した。しかしながら、われわれはこの二つの活動の間のギャップを効果的に埋めることができなかった。

確かに、アフリカ大湖地域の根本問題の一つは、活動を支えるさまざまな資源の不足であったが、政府が脆弱で行政能力に限界があることも開発事業の導入を阻むものであった。さらに、部族間の抗争が激化したため、各国政府は権力の分配や民主的な制度づくりに着手することがd形無かった。復興には共同体の和解が必要であるとルワンダ政府が認識するのには、長い時間を要した。



いつもは読み飛ばす朝日新聞の求人広告欄、その最上段に連載されていたときから切り抜きして読んでました。ちょうど就職活動の頃だったこともあり、仕事への向き合い方について、自分の基礎を形づくった一冊です。新卒で社会人になる後輩に何度かプレゼントしたこともあり、20代前半で読んでおきたい本です。

▼柳井正
・自分の評価は、他人に任せよ
本当に仕事ができる人は、自分に対する評価が非常に低い
あれもできない、これもできないと自己に厳しい
それは到達する目標が見えていて、届かない距離が分かるから
成長しない人は、自分で自分を高く評価している。
自分の評価は、他人にしかできないという事実に早く気付かなくては
・誇りを持てない仕事は淘汰される
仕事をするなら、自分の行きつく所まで行け
自分の力をとことん生かし尽してこそ分かってくること、できるようになることが非常に多い
誇りを持てる目標を自分なりに立てて、懸命に働く


▼安藤忠雄
勇気ある仕事を見よ
自分を奮い立たせる先人の仕事を糧に
・仕事をして生きて行くというのは緊張感を持続させること。ひとついい仕事をすると、次の仕事につながっていきますが、ここで安心せず、転ばず、緊張感を保ち続けられるかどうかが問われます。非常に難しいことです。
精神を萎えさせないためには、常に勇気を持って挑戦した人たちの仕事を見ることです。
・人間はこんなにもすごい。自分はどうだろうか。常に勇気ある行動が人の心を打つことを忘れてはならない。

▼佐々木毅
・分からないこと、の深さ
・自分を信じて目を凝らす
 うまく言えないけれど気になること、今ここで形にできないけれど志していること、そういう個人の思いを自分だけで考え抜く習慣が、現代の日本人には必要だと思います。
 おそらく昔から、優れたリーダーは人の目に見えない問題や事実が見えていたのだと思います。前例がいないことを提案し、実効してきたのはそういう人々でした。
 傲慢にならず、卑屈にならず、情緒に流されず、自分を耕し続けなければ

▼稲盛和夫
・強い願望は実現する
言い訳の材料があるなら挑戦などできない。
成就させるのだという強い燃えるような意志
言い訳は決してしない覚悟と準備で、新しい仕事に挑むべき
人間は信じていないことのもののために努力することはできない
・人生の結果=考え方×熱意×能力
熱意も能力も人それぞれだが、考え方はマイナス100点からプラス100点までの幅がある。嫉妬や恨み、妬みといったマイナスの感情にとらわれている人間は、そこに能力と熱意が掛け合わされると、とんでおない負の方向に大きなエネルギーを向けてしまう


問い:経済制裁において、制裁を実施する国々はどのような条件で協力するのか

手法:ゲーム理論でtypology、その後narrativeに仮説を検証

結論:有意と認められた条件は以下の三つ
1. the costs borne by the leading sender
2. the effect of (formal) international institutions (e.g. EC, CoCom)
3. bandwagoning among potential sanctioners

p.244 The leading sender must establish a credible commitment to sanctions if it hopes to gain others' cooperation. ..high costs lead to greater cooperation

p.246 continued use of these institutions for such "peripheral" purposes could threaten their existence, as other members begin to recalculate the costs and benefits of compliance
Institutions can strengthen cooperation on sanctions, but the practive of sanctions can weaken institutions.

potential sanctions did not make their decisions independently and did not appear to balance one another; instead, they bandwagoned, creating a situation of positive contagion.

残された課題:p.247 when states choose to use economic sanctions as opposed to other foreign-policy tools 

果たしてその経済制裁が、対象国における課題(例えば人権)、あるいは制裁国と対象国との紛争を解決することに有効かどうかは政策論として残る。


233頁
好きこそものの上手なれ。得意なことは、人の3倍やらないとダメだ。それだけやれば、何かが見えてくる。人の2倍努力しても、それではまだ足りない。3倍努力しないと、見えてこない景色というものがある。2倍がんばったぐらいだと出る杭は打たれるで、叩かれたり、邪魔されたりすることもあるが、3倍努力して出過ぎた杭になると、もう打たれない。マラソンで言えば独走状態。

243頁
一途一心。一つのことに、ひたむきに取り組む。ひたむきに、ひたすらに。周りのことも気にならないくらい、無心になって向き合う。毎日、こつこつと努力を積み重ねる。そうやって一途に一心に自分の信じた道を突き進んでいると、いつもの自分が持っている以上の力が湧いてきたり、普段ならとてもできないようなことができたりすることがある。ひたむきに努力した者だけが手にすることができる不思議な力。


原著:Romeo Dallaire(2004), Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda


476頁
アルーシャ和平合意が調印されたすぐに、ルワンダに派遣される憲兵隊や文民警察の存在を効果的なものにするために、最初に政治的・文化的な実際的知識を取得すること。
UNAMIRに、それまでの交戦当事者の意図や野心や目的について、信頼性ある情報を提供すること。
強硬派の裏をかいたり、RPFがいくつかタイミングよく譲歩するように仕向けたりするための、政治的・外交的な強制力を派遣団に与えること。
派遣団に対して適切な行政的支援並びに補給支援を行うこと。
もっと多くのよく訓練され、十分な装備を整えた大隊を派遣すること。
マンデートをもっと柔軟かつ強制的に適用すること。
こういった要素全てを成し遂げるために、ほんの一億米ドルほど予算を増額すること。


興味深かった点は以下のとおり。
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国家主権を理解することによって、国際社会の秩序がどのように展開し続けているのかを知ることができる。

保護する責任論においては主権とは責任。したがって主権の協調こそが国際社会の秩序維持の基盤。しかしアメリカの現実主義に従えば、主権とは偽善でしかない。安保理決議の権威ではなく、圧倒的な軍事力と経済力を誇るアメリカが正しく力を使うことこそが、国際秩序を支える。


60年代の財政危機 PKOをめぐる財政危機
75頁 冷戦後の財政危機
86頁 事務局の予算作業 高須コントローラー
101頁 ACABQ(行財政問題諮問委員会)
113頁 第5委員会


現実主義、革命主義、合理主義
175頁。干渉(intervention)の理論
第8章 外交の理論:勢力均衡
第10章 戦争の理論


興味深かった点は以下のとおり。
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悲嘆はパーソナルなもの

理解できないし比較もできない
「大往生」かもしれないが、遺族にとって寂しいものは寂しい
がんばろうと言わない。
なぐさめない
アドバイスしない
阪神大震災を経験したから分かります、ということはない
東日本大震災の被災地に入って反感を買ったことも

大事なことは、丸ごと受け入れること。


居候していたライブドアに検察が入ってから、営業が難航したところは、
本当に大変だったんだなぁと思う。

培養が不可能と思われていたユーグレナ。その理由が栄養がありすぎるから、というのがおもしろかった。

顧客発見、そして営業活動が大事だと説く、とても実践的な起業の本。

長先生の単著。人間の安全保障の理論的側面については既に英文でも和文でもあるが、学界と実践を繋いだ入門書として最適の一冊。人間の安全保障の沿革についても、1994年のUNDP人間開発報告書から丁寧に追ってあり便利。第2章紛争違法化の歴史については必ずしも本書のテーマに完全に合致しているわけではないが、先生の代表的な研究分野の一つであり、人間の安全保障に関心を持つ学生や実務家にも是非読んでほしい部分。東日本大震災に関する記述で、とりわけ参考になったのは238-239ページのジェンダーに関する部分。生理用品配布に関する自治体の男性職員の話や、世帯ごと入居となったためにDV被害が発生しているというところ。






人事を尽くし、運に恵まれた人だ、と思う。尋常ではない苦労と努力、そして、素晴らしいリーダーシップを存分に発揮することで、「iPS細胞」作製という奇跡を、自らの力でつかみとった、日本を代表する現代の偉人の一人である。運命という女神は後ろ髪が無い。つまり、運に恵まれない人は女神と気付いても、後ろからつかまえることすら、できない。自らは語られなかったが、あふれんばかりの自らの才能を信じ、それに真摯に向き合い、磨き上げる決心とともに、途方も無い努力と、最高の研究者と技術者で構成されたチームを率い、そして、運命の女神を抱きしめた。

本書では、山中先生のひたむきな努力が、静かに語られている。そして、先生の苦労も、山ほど語られている。文末で記されているように、「いちばん辛かったのは、基礎研究の世界に身を投じた後、自分の研究が本当に人の役に立つのか、なんの意味があるのかわからなくなった時期」だという。しかし、「ここで研究をやめたら、臨床医の世界から逃げ出して以来、二回目の挫折になる。それはあまりに情けない」(74ページ)という思いで、もう十分というほど努力してきたのに、もう一歩、がんばった。そして、ヒトES細胞の作製成功という遺伝子研究の大進歩をきっかけに、マウス、そしてヒトiPS細胞の発見へと結びつく。


なぜ創薬分野で期待できるか?
人体外で、薬の効能を確認することができる

「研究の継続性が大切だなんて誰がそんなんいうたんや。面白かったら自由にやったらええんやないか」

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