IPCCの研究報告書は地球温暖化による気候変動という現実を把握するための覇権的な科学言説となっており、UNEPもその報告を基に広報活動を推進している。IPCC報告書の分析態度として、確固とした発見と不確実な知見とを区別し、複雑性にも配慮するなど、慎重な態度が見られる。また、IPCCはその設置当初から政策志向型であり、純粋に科学研究を進めようとするワークショップとは異なり、政府間組織としての特色が強い。この政治的性質はIPCCが国連システム内の国際機構によって設立され、政府間組織として研究論点や制度設計において政治的な判断が織り込まれやすい構造になっていることからも明らかである。
 IPCCは研究報告書として慎重な判断を下すことは科学知の脆弱性であり、アジェンダ設定において不利なようにも見える。しかし、それが覇権的な科学言説になりえたのはなぜだろうか。一つには、まさにその設立過程から政策志向型であり、UNEPなど権威的な国際機関を巻き込んだからである点があげられよう。それはIPCCが研究組織というよりも、基本的には既存研究をレビューする場であるという点からも明らかだろう。二つ目に、世界経済の成長率や成長速度、政策対応の在り方が世界規模で収斂するか地域ごとに拡散するか、という政策的な対立軸をもとに400におよぶシナリオから6つのシナリオを提示する、という政策志向的な提言が含まれている点であろう。
 ところで、環境問題そのものは新しいトピックでは無い。70年代にもローマクラブによる『成長の限界』など、資源の枯渇と環境問題を結び付けた議論は盛んであったし、それが覇権的な科学言説であったことに議論の余地は無い。当時から産業化における環境破壊は可視化されてきたし、環境保護と産業化がトレードオフであるかのような言説も、古びれてはきたものの、未だに根強い。気候変動という枠組みで政策的に本格的に議論が深まってきているのは、それまで社会科学と自然科学がそれぞれの閉じこもっていたところ、社会的な要請が現実的になってきたために、その融合が求められてきたからではないか。これは、皮肉にもIWCで捕鯨の価値対立と国際的な管理措置の不在が争点になっていることと比べてみたときに特徴が明らかになる。捕鯨問題は、気候変動問題と比較すると、配分される社会的価値の代替可能性が高いといえる。すなわち、鯨肉をめぐる食糧問題や、鯨皮をめぐる資源問題などと考えた場合、文化的価値を捨象すれば、経済的価値による代替が可能である。気候変動は、「発展する権利」という社会的価値の権威的配分において、先進国と途上国が短期的な配分をめぐってゼロサムゲームを争っているものと捉えた場合、その対立は先鋭化する。その論点を整理するために自然科学が果たす役割は当然大きいが、社会科学との融合の順序や組織的構造について、そして何より、そこで決められた政策目標をどのように実現するか、といった課題に対してどのように応えていくのかが、これから科学に求められていくだろう。

 

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このページは、okneigeが2009年12月 6日 09:30に書いたブログ記事です。

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