・前半は戦後対日占領政策において、ケナンが果たした役割について論じる。「ケナンは、対日占領政策の実施に当たって精神革命の必要を説き、その効果を信じたマッカーサーとは異なり、東アジア地域に対するアメリカの影響力に限界を感じる、消極的な評価をしていた。と同時にそれは他方で、日本をまさにアメリカの世界政策の中に位置付けたことによって、他の東アジア諸国の安定化の問題と結びつけることになる。この構想自体は、1947年5月に国務次官D・アチソンがミシシッピ州クリーヴランドで行った「デルタ演説」にすでに示されていたが、ケナンはそれを東アジアの不安定な情勢の中でアメリカの安全保障を確保するための具体的な政策案に編入する作業を行っていたものといえよう。疑いもなくそれは、対日占領政策を冷戦の観点から全世界的な規模での封じ込め政策に編入することを意味したのである。」(pp.51-52)



・後半は、日本側の「外交態勢」について述べている。筆者が外交態勢という言葉につき明瞭な定義を与えていないことにはうらみが残る。「本章では、対日講和の締結をめぐる保守と革新との対立には、日本国憲法の下での国際社会への出発という観点から捉えると、相互に補い合う側面もみられることに着目して、両勢力間の相互作用の全体を戦後日本の「外交態勢」と呼んでいる。」(p.131) 外交態勢の第一の特色として安全保障問題に関して秘密外交的な性格が強くみられる点を指摘しているが、これは先日、遂に証拠となる文書が見つかった佐藤首相の核持ち込み密約問題につながる特徴でもあろう。保守勢力は「対外協調を重視して外交上の選択肢を狭める一方、国内での外交論議では外交問題を理念的に論じる傾向が強かった。こうして軍事問題も取り扱わざるをえない現実の外交と、日本国憲法の平和主義を旨とする国内の外交論議との間には深い懸隔が生じたのである。保守主義が持続する日本政府は、アメリカ政府との秘密交渉を通じて両者が相互に干渉し合わないように努め、それによってアメリカとの同盟関係を保持するように図ってきた。」(p.132)


・平和問題談話会の「三たび平和について」における丸山真男の柔軟性はリアリズムと読み替えることもできるだろう。そこには、民主主義を追求すべしという彼らの理想が込められていた。アジアを向いた非武装による平和主義と中立外交を、国連のもとで行うという全面講和が丸山らの姿勢であった。都留重人が英訳したというのは、彼が世界恐慌後のTVAについて国内で随一の理解者だったことをふまえて考えると興味深い。

・知識人たちが全面講和を唱えていた、1951年の日米安保条約締結・単独講和までの外交態勢のダイナミクスというのは、やはり面白い。朝鮮戦争開始で一気に単独講和に針が触れてしまうわけだが、それまでに、隘路の中で選択しようとした戦後外交の理解がなければ、その後の日米関係は理解できまい。これは岡義武が述べる、まさに「国内体制の民主化と国際政治との連関」と共鳴するところだろう。

・また、六本木の国際文化会館の創設に至るドラマもおもしろい。

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このページは、okneigeが2009年12月31日 10:26に書いたブログ記事です。

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