本稿では、国際組織の正統性について論ずる。冷戦が終結して20年が経ったが、この20年は地域紛争や内戦の激化やジェノサイドに対して、既存の国際組織がその原則に修正を加えながら、なんとか対処してきた苦難の連続であった。がんらい、ウェストファリア体制は、悲惨な宗教戦争の反省を基礎としていた。宗教とは絶対的な神を信奉するものであり、異なる神を信奉する宗教間でその正しさを巡る争いが繰り広げられた場合、最終的には異教の殲滅が理論的な目標となる。このような悲惨な宗教戦争を二度と起こさないために国教の自由を認め、絶対的な国家主権を定めた。これを相互に認め合い、主権は不可侵であるとするのがウェストファリア体制の基本的な前提のひとつであった。
 冷戦の終焉は、米ソ間の核戦争の恐怖からの解放をもたらした。しかし、米ソが勢力圏に行使してきた介入を控え、利害の薄いアフリカ諸国やアフガニスタンなどアジア諸国などから撤退することで発生したのは、地域紛争ないし国家内における内戦の激化であった。それまでのように主権を有する絶対的な存在としての国家として機能しえない破綻国家がソマリアやルワンダなどで課題となって表出した。国際赤十字(ICRC)の職員が殺害されるという事態は、破綻国家における主権の限界を象徴的にあらわす事件でもあった。
 このような国際政治の変質を受けて、アナン事務総長は二つの主権という考えを打ち出した。すなわち、国家が独占してきた領域主権が相対化され、人権という主権が台頭しているという説である。これはコソヴォ紛争において為されたユーゴ空爆を受けたものであった。はたして、このようなウェストファリア体制に対する根本的な修正として「人権」を重視する姿勢が認められつつあることは、国際組織にとってどのような影響をもたらしているのだろうか。以下では、国際刑事裁判所(ICC)と人道的介入の二つの側面から考えてみたい。 
 国際刑事裁判所は、主権国家の枠を超えた超国家的な刑罰権を持つ組織として1998年に成立した[1]。 それまでの超国家的な刑罰権は、対象となる事象を特定してアドホックに設立された裁判所によって行使されてきた。第二次世界大戦後のニュルンベルク国際軍事法廷と極東国際軍事法廷、および、1990年代に安保理決議に基づいて設立された旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)およびルワンダ国際刑事法廷(ICTR)である。これらの裁判所規定においては、「平和に対する罪(侵略の罪)」「戦争犯罪」「人道に対する罪」そして「ジェノサイド」が対象とされた。1998年に、常設の国際刑事裁判所を設立するローマ規定が採択され、ここでも同じ犯罪類型が対象犯罪とされた。伝統的に国際公法上の犯罪として論じられてきたものの中でも、これら4つは特に、「慣習国際法上の犯罪」(コア・クライム)として確立したとされている。また、ICTYおよびICTRが国連安保理決議によって設立されたのと異なり、国際条約を設立根拠としている点が特徴である。ローマ規定の内容は、従来のアドホックな国際刑事法廷の規定をふまえているが、これらに比してかなり大部になっており、特に、刑事手続きに関する規定には発展が見られる。規定が発効する以前になされた行為を遡って処罰してはならないという「遡及処罰の禁止」も含めて、罪刑法定主義が初めて明文化され、「侵略の罪」を除いては、各犯罪類型の定義も詳細になった。刑罰としては、終身刑、30年以下の自由刑、付加刑としての罰金および没収が予定されている。ICCの管轄権は、国家刑罰権が十分に機能しない場合にこれを補完することとなっている。(ICC規定1条) ただし、ICCの管轄権は、犯罪地国と被疑者国籍国のいずれか一方がICCの管轄権を受諾すれば発生し、締約国以外に対しても効力を持つ。他方で、なおいずれかの受諾は条件とされていることや、また、安保理に、対象犯罪の疑いのある事態をICCの検察官に付託する権限や、ICCの捜査または追訴手続きを延期させる権限が認められていることは、政治的な妥協によるものだとの指摘もある[2]。  
 さて、このように国際社会による平和構築のあり方に大きく影響を与えるICCであるが、実際に有効に機能するかどうかにおいて限界も見られる[3]。 ICCの管轄権が、事実上、ローマ規定に加入した諸国の領土内だけに限られるためである。これまでICCの検察官に捜査を依頼したウガンダやコンゴ民主共和国の例を見ると、中央政府が自国領土内の反政府勢力の犯罪をICCの捜査対象にすることを求めている。つまり、当該国の中央政府が、反政府勢力の犯罪行為を糾弾し、取り締まるためにICCの国際的権威を求めているのである。ICCは純粋に介入主義的な機関ではなく、純粋に非介入主義的な機関でもない。ICCがもつこのような二面的な性格は、強制執行とICCの能力強化の二つの角度から、さらに検討される必要があろう。 
 次に、人道的介入について考えてみたい。介入を巡る議論はあたらしいものでは無いが、1999年にコソヴォ紛争をめぐって国連の明示的な授権無しにNATOがおこなったユーゴ空爆は、その「人道的」な意図から人道的介入と呼ばれた。人道的介入についての主要な論点は、その合法性と正統性をめぐるものである[4]。NATOは空爆の合法性と正統性の説明について三つの方向性をとった 。第一に、空爆直後のNATOの公式見解は、空爆は安保理決議に沿うものであり、ユーゴスラヴィア人民に対する戦争ではなかったというものだった。これは、合法性と正統性とを強引に一致させようとする見解だが、これは、国際法学者のアプローチから否定される。第二に、合法性議論を飛び越えて、正統性の契機を強調するものである。これは正統性を強調することによって違法性から目をそらさせようとする見解であり、正戦論の復活と言えよう 。第三に、NATO指導者は安保理の明示的授権を単なる技術的手続き上の問題とみなし、NATO構成諸国の同意が国際人道法・国際人権法の重要規定の適用審査基準になるとの示唆もおこなった。これは、強行規範や緊急状態といういわば国際法枠組みの限界に位置する規則を通して、正統性から合法性への道を勝ち取ろうとする見解である。このようなNATOの自己正当化努力に対して、空爆の合法性は認められないが、正統性は認められるという評価が一般的になっている。いわば「違法だが正統」といった評価である[5]。   
 しかし、地域的国際機構に過ぎないNATOが、はたしてどれほどの正統性を持ちうるのか。これに対して既存の秩序や人道に基づく規範は、有効な説明ができなかったが、そこで提唱されたのが、Responsibility to Protect(保護する責任、R2P)である。R2Pは、残虐で座視できないほどの脅威に対して国際社会は無視するべきでなく、積極的に保護する責任があるという説である。これはそれまでのウェストファリア体制における基本原則としての主権概念を超越する概念であり、R2Pの概念が憲章7条と合わさってacting under chapter 7として行動が為されることは、国連による政体変動をもたらすこととにもなる。具体的な権限規定に基づかないと拡散の危険があるため、R2Pを安保理が恣意的に援用してしまい、より踏み込んで、R2Pが一般法の原則として国連憲章を飛び越えてしまった時には、濫用される危険すらある。これが現実となったのがG・W・ブッシュ政権におけるイラク戦争であった。これは大量破壊兵器の拡散に反対するものとして国連で議論が為され、結局、明確な国連の授権無しにイラクに対して有志連合国による戦争を行い、これは国際法秩序の危機をもたらした。更に問題となったのは、イラク戦争はフセインの圧政下に苦しむクルド人や一般市民を解放するための人道的介入であるという議論が、アメリカを中心に起こったことである。アメリカのユニラテラルなイラク戦争は、R2Pの賛同者達にとっては、到底、人道的介入と呼べるものではなかったことが明白になったが、R2P概念を放置させないためにどのように国際機関、特に国連が扱うべきなのか。これに呼応したのが、2004年12月に出されたハイレベルパネル報告書であった[6]。ハイレベルパネル報告においては、人類の安全を脅かす脅威が多様化し、相互に関連しあっているとし、一国が自国の安全を単独で守りきれない状況が指摘された。主権国家が国連システムに寄せる期待は拡大しており包括的な安全保障制度が必要とし、新たな脅威に対処するためには、国連のこれまでの組織では機構的、手続き的問題があるとして、それらに対する具体的改革案を提言することを目指し、アナン事務総長が16人の専門家からなるハイレベルパネルを立ち上げた。この16名の中には緒方貞子元国連難民高等弁務官も含まれていた。このパネルが提出した最終報告書がハイレベルパネル報告書であった。本報告書においては、武力行使についてルールと基本原則が明記された。憲章第51条(自衛権)は改正すべきではない(パラ192)という立場をベースとして、 憲章第51条の下での予防的な武力行使の合法性について懸念を表明しつつも、これは、憲章7章下で(安保理によって)容認された集団行動の場合は、当てはまらない(パラ194)とした。そして、人道的災禍に対し、国際社会は安保理の承認の下、「保護する責任」を有する(パラ203)と明示的に記載された。R2Pは、武力行使にあたって条件を提唱したが、その基本的なエッセンスは本報告書にも受け継がれており、憲章第7章に基づき安保理が武力行使を承認する際は、(1)脅威が深刻であること、(2)武力行使の目的が適当であること、(3)武力行使が最後の手段であること、(4)武力行使で用いられる手段が脅威と較べて必要最小限であること、(5)武力を行使した結果が、武力を行使しなかった場合の結果と較べて悪くならないこと、といった5つの基本原則(ガイドライン)を満たす必要があり、安保理、総会は右ガイドラインを明示的に決議すべし(パラ207、208)、等が明記された。このようにして、国連においてR2Pをどのように実務的に取り込むかという動きが、皮肉にもイラク戦争後に加速している。 
 一方で、このような国連のR2Pに対する動きも一枚岩では無い。この提言に呼応したアナン事務総長報告「In Larger freedom」[7] においては、あくまでも憲章7条下において安保理が判断すべきとし、憲章以外の規範については言及していない。その意味では、保護する責任が国連における行動基準として定着するには、ICCの実効的な機能と同様に、まだ時間がかかりそうである。

 

[1] 高山佳奈子「国際犯罪と刑法」大芝亮・藤原帰一・山田哲也編『平和政策』有斐閣、2006年。
[2] 小和田恒「国際刑事裁判所設立の意義と問題点」『国際法外交雑誌』第98巻第5号、1999年。
[3]  篠田英朗「平和構築機関としての国際刑事裁判所」城山英明・石田勇治・遠藤乾編『紛争現場からの平和構築――国際刑事司法の役割と課題』東信堂、2007年。
[4] 篠田英朗「「新介入主義」の正統性:NATOのユーゴスラビア空爆を中心に」広島市立大学広島平和研究所編『人道危機と国際介入―平和回復の処方箋』(有信堂高文社、2003年)30頁‐32頁。
[5] 星野俊也「米国のコソボ紛争介入―その道義性・合法性・正統性」『国際問題』No.479「クリントン政権の対外政策」(2000年2月)28頁。
[6] A/59/565
[7] A/59/2005 "In Larger freedom: towards development, security and human rights for all"

 

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このページは、okneigeが2009年12月 6日 09:06に書いたブログ記事です。

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