フィリップ・ゴーレイヴィッチ(2003) 『ジェノサイドの丘―ルワンダ虐殺の隠された真実』



原著:Philip Gourevitch(1999), We Wish to Inform You That Tomorrow We Will Be Killed with Our Families: Stories from Rwanda


ルワンダのジェノサイドに至る過程と、虐殺の悲劇が前半で記され、ジェノサイド後にコンゴ民やタンザニアへ逃れたフツ系ルワンダ人に対する襲撃とカガメ大統領へのインタビューが後半で記されている。著者のゴーレイヴィッチはジェノサイド後にルワンダに逸早く入った外国人ジャーナリストの一人であり、発売当初からルワンダのジェノサイドを知るために代表的な一冊となっていた。2011年に上下巻が一冊にまとまった新装版が発売され、ますます多くの人に読まれることが期待される。

印象的な内容(一部要約、一部引用)について以下のとおり。なおページ数は旧版の上下巻のもの。
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1975年にフランスとルワンダのあいだで結ばれた軍事協定は、仏軍がルワンダ人の戦闘、軍事訓練、警察行動に参加することをはっきり禁じていた。しかしミッテラン大統領はハビャリマナの友人であり、ミッテランの息子、武器商人でありフランス外務省のアフリカ政策顧問をもつとめるジャン・クリストフもまた彼の友人だった。

上巻p.181
★【国内避難民は紛争の交渉材料であった】
オテル・デ・ミル・コリンや聖家族教会などいくつかのツチ族避難民の集結所は、フツ族にとってRPFとの大事な交渉材料となっていた。だからこそ彼らは生き長らえることができた。
RPFは政府軍の捕虜数1千名を町の反対側にあるスタジアムに収容しており、そしてRFP指導部はフツ至上主義政府にも理解できる一種の取引を提案してきていた。すなわち、おまえたちが殺せば、われわれも殺す。前線で捕虜交換の交渉がおこなわれた。UNAMIRが取引を仲介して輸送手段を提供した。当時は国連が避難民を救ったとも報道されたが真実は違う。RPFが他の人間を殺すと脅したから避難民は救われた。

上巻p.191
オルブライト朝刊の名前がルワンダと結び付けられることはほとんどないが、オルブライトはルワンダにわずか270名の軍隊すら残すことにすら反対した。PDD25では米国が自分が参加したくない任務を実行しないよう他国にも働きかけるべきだとも促している。

上巻p.206
★【ジェノサイドの終わり、フツ族のザイールへの流入、フランスによるジェノシダレの保護】
RPFの前線部隊は避難民を追ってフツ至上主義勢力の牙城である北西部に入り、逃走した政府軍部隊から支配権を確保した。7月12日、ICRCはジェノサイドによって100万人が殺されたと発表した。7月13日、RPFはハビャリマナのかつての根拠地ルヘンゲリを占領し、それから2日間で50万人ものフツ族が国境を越えてゴマに雪崩れこんだ。7月15日、米国はルワンダのフツ至上主義政権の承認を取り消し、ワシントンの大使館を閉鎖した。7月16日、フツ至上主義者の大統領と閣僚のほとんどがターコイズ地区に避難した。フランスは彼らを逮捕すると約束したが、7月17日、彼らはバガソラ大使に護衛されてザイールに向かった。すでにザイールに向かったルワンダ人の流入は100万人を超えていた。

ゴマはキブ湖の北岸、迫りくる火山の山裾にあり、不毛な黒い溶岩台地が広がっている。この硫黄の寝床に、ルワンダ人難民は周囲のどの都市よりも大きな人口を抱えた6つのキャンプを設営した。それぞれ12万人~20万人。そしてコレラが猛威をふるった3,4週間の間に3万人以上が死んだ。

下巻p.62
【規律正しいRPF】
カガメは規律正しく、同じ政治的理想に検診する兵士は、つねに自分自身の権力を維持する以上の目的を持たない腐敗した政権の兵士を打ち破れる。RPFは戦争の間、士官もは以下の兵士達も、軍事訓練だけでなく定期的に政治セミナーへの参加も義務づけられた。政治教育とともに、RPFはゲリラ戦争のあいだに規律正しさによっても知られるようになった。カガメは軍に正気と規律をもたらした。

下巻p.79
【ツチ族はルワンダに帰還した】
なぜ、ほとんどルワンダに足を踏み入れたこともない人々が、比較的安定して安全な成果を捨ててルワンダに住みつこうと考えたのか?それは国外追放の歴史、難民生活のプレッシャー、故郷の記憶、あるいは望郷の念、そのすべてがかかわっている。同時に広く共有されたジェノサイドに抗おうという決意、自分たちの存在が消し去られようとした場所にたち、それに抗う一人となりたいという思いもあった。

【最初期は経済的なインセンティブも】
無料で奪える空き屋と、供給をはるかに上回る物資とサービスの需要に惹かれ、帰還者達は観物、金物、医薬品、食品、なんでもかついでやってきた。物資をもちこんでルワンダで2,3倍の利益をあげ、数週間のうちに大金持ちになったものもいた。

店は開いて商売をはじめ、公共施設は多くがよみがえり、新しいお札が発行されてジェノシダレが逃亡時に大量に持ち去った旧紙幣を無効にした。

下巻p.109
国連法廷は本質的には国際社会の良心を満足させるために、ジェノサイド条約の求めるところを満たせなかったかわりに作られた。なにかをやっているように見せかけたいだけなんだが、こういうのはたいてい、なにもやらないより始末が悪い。

ジェノサイドの指導者たちの身柄が国連法廷に引き渡されたとしても問題は残った。国連は法廷が死刑判決をくだすのを禁じていた。

下巻p.201
【コンゴ戦争はアフリカにおける世界大戦】
スーダンの独裁者モブツは死に、1997年5月17日、カビラが大統領に就任。コンゴ民主共和国に名前が戻った。カビラが素早く戦勝できたのは、ザイール軍が脆弱だったため。モブツのために戦ったのは数万人にもおよぶルワンダのフツ至上主義政党の亡命兵士と、フランスで雇われたセルビア人傭兵数10名だけだった。同時に外国勢力の援助があった。それはルワンダでけではなく、アンゴラ、ブルンジ、タンザニア、ウガンダ、ザンビア、エリトリア、エチオピア、南アフリカ、ジンバブエであった。ヨーロッパで起こっていたら、これはおそらく世界大戦と呼ばれていただろう。

訳者解説p.246
1994年4月7日、朝日新聞の夕刊では一面でルワンダ、ブルンジの亮大統領の乗った飛行機が撃墜され、内戦が激化しつつあることが伝えられた。
だが、4月8日、細川首相が辞意を表明する。以後、紙面はすべて新生党と新内閣をめぐるゴタゴタに埋め尽くされ、記事はすべて国際面の中に押し込められてしまった。

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このページは、okneigeが2013年4月27日 11:05に書いたブログ記事です。

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