人権理事会は、国連の人権問題への対処能力強化のため、従来の委員会に替えて、総会下部機関として看板を掛け替えられ、2006年に設置された。この背景には、90年代以降の地域紛争の激化、そして、ソマリアや旧ユーゴ、ルワンダなどの悲劇に対して実効的な行動を国連が取れなかったことの反省があげられる。  その有効性としては、UPRによる定期的な人権状況の審査と人権促進のための相互協力を軸とした制度強化が図られている。また、理事会への格上げにより、国際社会への影響力の強化が期待されている。  一方、限界として、第一に理事国数の配分という構造的な問題がある。アジア・アフリカ諸国が過半数を占める途上国優位の議席配分は、先進国の積極的な人権理事会のコミットを妨げるものである。すなわち、UPRにおいて理事国は任期中に優先的に人権状況を審査されるが、先進国(特にP5)はその力と規模の大きさに比例して、国内および国外への人権侵害の可能性が大きくなるリスクを孕んでいる。典型的なのは人道的介入における付帯的被害の事例である。世界の警官として人道危機に対して血と汗を流す大国にとって、いちいち付帯的被害を指摘されて、大目標としての人権侵害との戦いに影響が出ることは避けたいであろう。また中国やロシアのように、国内に人権問題を抱える安保理常任理事国にとっては、内政干渉につながるような組織は到底、認められない。第二に、国連は、加盟国政府の主権国家内の事象に対して、その政府が支配的であればあるほど、実効的な批判や非難を投げかけにくくなるという限界がある。PKOの展開ですら、同意国政府の合意が必要である。東ティモール危機の際に、インドネシアは当初、PKO展開に反対した。また、ヒューマンライツウォッチがスリランカ政府に対して非難声明を出しているように、LTTEの軍事制圧により人権の迫害のおそれがある収容所内の無期限拘束、および人道法違反の疑いが指摘されているものの、これまでPKO展開が実現できなかったスリランカを、まずは国連の議論の土俵に引きずり出すために、国連にとっての実利的な妥協が、人権保護を完遂できないことは容易にありうる。  しかし、人権理事会の限界を指摘するのはむしろたやすい。国連の中核的組織である安全保障理事会ですら、実効的に機能をし始めたのは冷戦の終焉を待つまで40年以上の年月が必要であった。むしろ、90年代におこった地域紛争の悲劇は、国連で一致した合意が得られないために、事実上、紛争が黙殺されたことであった。人権問題のアジェンダセッティングはこれまでマスメディアやNGOが担ってきた役割が大きい。人権問題はNGOだからこそ実効的なアドボカシーができるという側面は強いが、それが皮肉にも正統性を低いままに留めておくことになったうらみがある。正統性の高い人権理事会のアジェンダセッティング機能は、それが限定的であるとは言え、より一層の期待ができると考える。

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このページは、okneigeが2009年11月15日 16:28に書いたブログ記事です。

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